宿物語|里と海の「あわい」の土地で(文・聞き手|簑田理香)

第1章  波を聴く|水がめぐる「あわい」の土地で。(その1)神磯に鳥居が在る風景

あわいの土地の、音風景

ざざーん ざざーん どどーぅ どどーん
目の前に広がる、大洗の夜の海。
岩礁に砕けて飛び、踊る波は、月の光にその波頭を白く照らされ、
生き物のように踊る姿をあらわにしています。

宿のテラスに座って、夜の海と向き合います。
この空間は、ただただ目の前の海に向き合うためにつくられたもの。
左右の仕切りとなる壁面も天井も無駄なものがなく、
「海の景色と音」以外のものが視覚に入らないような配慮もなされていて、
ただただ、目の前に大きなスクリーンのように、広がる海。

ざざーん ざざーん どどーぅ どどーん
岩礁に砕けて飛び、踊り続ける波の声は、私の耳から聞こえてくるのではありません。
体の細胞ひとつひとつに直接沁みてくるように、私の中に入ってきます。
ざざーん ざざーん どどーぅ どどーん
私の中に波の声が満ちてくると、その声は、目の前の海の方向からだけではなく、
かすかに星がきらめく頭上から、私の背後から、右から左から、
輪唱しているかのように響き始めます。
波の声の響きの中に「私」が包まれていく心地よさは、
人間も水の惑星の循環の中のひとつの生き物にすぎないという原始の記憶を思い起こさせ、
日々の生活の中では忘れているさまざまな感覚の扉を開いてゆきます。

この土地で生まれ育った宿の女将は、オーケストラが奏でる交響曲のようだと話してくれました。なるほど、風や月の引力にタクトを振られ、生命を育む海の水が、打楽器をたたくバチのように、弦をはじく幾多の指のように、あちらこちらから思い思いに岩に駆け寄り岩にぶつかり、空に弾け散ります。ピアニシモからフォルテシモ、時にスケルツォで。水と大地が交わり多層的に響きあう様は、まさに交響曲のようです。
宿の主人は、もうひとつの視点をもっています。若い頃に好んで聴いていたハードロックの激しい演奏の気持ち良さを、この海で思い出すと言います。
「頭の中に生じる様々な思いを消して冷静になりたくて、夜はヘッドフォンで轟音の音楽をじっくりと聴いていたものです。強いストレスには強い音が、少なくとも最初は欲しくなる。若い頃、私の場合はそうでした。自然の激しい音でも同じで、滝の音や荒波の音に包まれると本当に気持ちいいですよね。聴きながら心が静かになっていく、そんな感じです。今は、出張などで数日間を都会で過ごして、大洗海岸に戻り、この波の音に包まれると、やっぱりほっとします。何年たっても新鮮に、この波のパワーを感じています」

大洗海岸は、地球上で最も多くの水を蓄えた太平洋と、
私たちが暮らす里が出会う境界、「あわい」の土地。
波は、ざざんざざん、どうどうどうと、音を奏でながら踊り続けています。
夜が明けて、波打ち際へ散歩にでかけると、
岩の間を走る水の音や砂を洗う音が聴こえてきます。
ぽこぽこぽこ、さらさらさら…。小さな優しい音がします。
波に気持ち良さそうに揺られているアラメ(海藻)や、
汀線上を走る小さなカニも、優しい音を奏でています。
はるか外洋の水平線を望めば、私たちが暮らすのは、
大きな大きな水の丸い惑星であることをイメージできます。
その大地の上をめぐる水の在り処で、
マクロな音とミクロな音が、心地よく混じりあう。
あわいの土地の「音風景」です。

名前をもつ岩

大洗の「音風景」の舞台装置は、長い長い年月をかけて波の浸食や地球の活動で形作られた、「岩礁海岸」と呼ばれるものです。大洗町の海岸線は10kmほど続き、その半分ほどが、大きな岩が波間に見え隠れする岩礁海岸となっていて、70近い岩礁があり、『大洗の海と生き物』(大洗町教育委員会)によると、そのすべてに名前が付いているそうです。そのほとんどが、今では名前の由来が正確にわからなくなっているものが多いそうですが、例えば、ムラサキインコガイの大洗での呼び名「しおり」が名についた「しおりじま」と呼ばれる岩礁や、かつて罪人の首をさらしたと言われる「前さらし」「沖さらし」と名付けられた磯があります。大洗磯前神社がある宮下地区には、神社の馬を洗っていたと言われる「馬洗洞(うまあらいどう)」という名の磯があります。

いつの時代から、この土地の人は岩礁のひとつひとつに名を付けて呼ぶようになったのでしょうか。この土地の歴史研究と啓発活動を長年続けている蓼沼香未由(たてぬまかみゆ)さん(大洗町生涯学習課文化振興係)に伺いました。

「残されている記録から考えると、200年ほど前には、すでに岩礁に名前がついていたようです」と、蓼沼さんが見せてくれたのは、江戸の弘化年間(1844〜1848)頃に書かれたという『磯浜誌』の写しです。名前がついた主な岩礁の数は50〜60であるとして、5ページにわたってその記載があります。まだ活字に起こされていない文献で、蓼沼さんも読み解いている途中とのことでしたが、当時の書き手の息づかいも一緒にそこに記録されているような毛筆の跡が踊る紙面からは、当時の人々が、岩礁ひとつひとつに畏敬の念を払いながら、日々の暮らしや漁業などの生業の拠り所としていたことが伺えます。また、この記録からは、大洗の「拠り所」の大きな変化も見えてきました。

「宮下地区にある、海の中の大岩に立つ鳥居の場所を、今、私たちは、かつて神様が降り立った場所として『神磯』と呼んでいるのですが、この『磯浜誌』で、その岩には榑梁磯(くれはりいそ)と書かれています」と、その箇所を指した後、蓼沼さんは、他のページをめくります。

「実は、この記録では、『神磯』という記載は他の岩のところに書かれています。それが、この『大甕磯(おおがめいそ)』なんですが…」

宮下地区の南、平太郎浜にある「大甕磯」。亀の甲羅に似た大岩が満潮時にも沈まず、潮が引いたら亀の頭のような部分も海面に見えてくると言います。『磯浜誌』では、たしかに「神磯」とも書き添えられていて、蓼沼さんによると、海が仕事場であった漁師さんたちにとっては、この大岩が当時の「神様の磯」であったそうで「漁人も近づく事なし」と書かれた文献もあるとのことです。平太郎浜の岩礁帯で、いちばん沖にあって海面に沈まない岩。それはたしかに漁師さんたちにとって、浜から船を出し浜へ船で戻る際に、岩礁帯に近づきすぎて坐礁しないための目印になったのでしょう。生命や生業を見守る聖なる岩、ということでしょうか。

ある寄り合いの席でこう話している方がいました。
「私が生まれた家のまわりは。ほとんどが舟方だったから、近所の人はみんな、海はみんなのものだからって、とても大事にしていましたよ。岩のひとつひとつも名前で呼んでね。わたしたちが磯で遊ぶ時も『それは、えびすさん(小さい岩礁の名)じゃないんだからな。気をつけろ!何かあったら、じいちゃん、ばあちゃんって、叫べ』と、祖母が気遣ってくれていました」。
このように自然の中の小さな地形ひとつひとつに名前をつけるという営みは、土地の風土と人の生業や暮らしの結びつきの豊かさを増して、人と、恩恵を受ける自然との関係を良好なものに保ち続けるための大切な知恵であると言えそうです。

海から視点

岩礁が連なる海岸の南端に大洗港があり、大洗港から南には、サンビーチと呼ばれる砂浜の海岸が続きます。夏になると蓼沼さんは、そこでサーファー達と海に入り、貝掘りをしたり海水につかりながら、出航するフェリーの姿を眺めたり陸を眺めたり…そんな時間を楽しんでいるそうです。夕暮れ時になると里山に陽が沈み、残光に照らされた山の影が海面に写る姿や、夕陽にかかる雲の動きで光の加減が変わっていく様が、なんとも言えず良い風景だと。

海からの視点で考えると、海岸線の変化や、神社の位置が昔の人の暮らしや生業とどう関わっていたかも見えてくると、蓼沼さんは話します。
「今の大洗町の観光のシンボルは、昭和38年に作られた神磯の鳥居です。元旦の明け方は、鳥居の向こうの水平線から昇る御来光を観に、多くの人が訪れますし、ふだんから観光客にとても人気がある場所ですよね。鳥居ができるまではどうだったかと言うと、大洗岬が町の象徴的な場所でした。大洗岬と言っても、今では、その名前は地図からも消えてしまいました。平太郎浜沖が岬でした。海に張り出した岬があったんです。昭和36年に港湾建設の工事が始まって地形が変わり、岬に見えなくなってしまいましたね。岬の先端の地名として、昔は「埼(さき)」が使われていました。このあたりには、北の平磯の酒埼(さかつらさき)と、ここの大洗埼があったわけです。古代や中世の水上交通がメインの時代、岬は、座礁の可能性が近くにあることを示す、とても重要な場所でした。鹿島灘を航行してくる船は、岬が見えると、岩礁地帯を避けて迂回して東北を目指す…、そんな重要なポイントで、そういう場所だからこそ、そこに神社を作ろうという考え方も生まれて、大洗磯前神社と酒列磯前神社が建立されたようです」。
海からの視点では、大甕岩と同じように、時にはそれ以上に、神社が大海原を船でゆく者たちの目印となり、お守りとしてのシンボルともなっていたのでしょう。